高校卒業後、迷走の末にたどり着いた音楽業界
高校卒業後、超優良といわれる大手メーカーに入社し、同期約200名中5名のエリート養成コースに放り込まれたまでは良かったものの、 結果、全くなじめず自分を見失い、社会人としての自覚もなく、休日だけが楽しみな日々。。。
子供の頃からことあるごとに「なぜこんな田舎に生まれたんだろう?」などと考えていた性分がここぞとばかりに爆発し、行けばなんとかなるさと親の猛反対を押し切り上京。。。無謀というか。。 極まった若気の至り。
で、当たり前のように東京は、学位もキラキラな経歴もないただのワカゾーに甘い世界ではなく、当初数年は悲惨な毎日。迷走してました。今思い返しても、いろんな方に迷惑かけたしお世話になったなぁ。。。 でも、「(東京に)来なきゃ良かった。。」と思ったことは、ただの一度も、一瞬たりとも思わなかったですね。田舎は捨てたぐらいの気持ちだったので。
そんな迷走も、音楽という、小学生の頃からハッキリ「好き」と自覚していた分野に就けた幸運と、そこでの業界気質が合っていたこともあり、その後は、まさに水を得た魚・笑。 ご飯より何より仕事が楽しい。よく、成功者は仕事と遊びの区別がないなんていいますが、当時はまさにそんな状態。人間ハマるとここまでいくか、てぐらい順調な日々。
プライベートだって、消費の自由だけは豊富な東京ですから、若者にしてみれば、それは楽しいわけです。
(ちなみに、人生で初めて買ったレコードは、マイケルジャクソン「スリラー」で、二番目は山下達郎「Big Wave」。スリラーが中一で、Big Waveが中二。どちらもたしか2,800円。。。 それに比べると、Spotifyは素晴らしいですね・笑。ちなみに収録曲中のフェイバリットは、スリラーがA2「 Baby Be Mine 」。Big WaveはA4「Magic Ways」。「Baby Be Mine」好きの代表格としてあの松尾潔氏。「Magic Ways」は、今頃になっての世界人気。というかタツローさん、ストリーミング解禁、お願いします・笑。世界の音楽好きが待望してますよ)
そんな生活ですから、故郷のことなど顧みることもなく、帰省するのも数年に一度。。。
まぁ、よくある話です。
でもまぁ、田舎(故郷)にシンパシーを持たない東京在住者って、大体、似たようなものじゃないでしょうか? 実際、私の周りにも多かったですし。
(とか、順調そのものだったように書いてますが、壮絶にツライ出来事もいろいろ当然のようにあったワケで。。。全ては私のワカゾーさ故。そうした中でも諦めずに私を鍛え続けてくれた先輩や関係者諸氏及びアーティストの皆さまには感謝してもしきれません。この場を借りて改めて御礼を申し上げます)
で、そんな私が、今、さつまいも生産者として酒田で暮らしている。自分でも不思議に思う一方で、なるべくしてなった感もある。
きっかけは、東日本大震災という外的要因と、仕事観の変化という内的要因です。

震災を経て
東日本大震災。 あの日のことは今も鮮明に覚えています。その瞬間、私はそれを地震とは気付かず、「なんか地面フニャフニャするな」とか思いながら渋谷公園通りを渋谷区役所に向かって歩いていました。
そして、辿り着いた区役所内のモニターには、津波がリアルタイムで映しだされていました。
「あり得ないと思っていたことが起こるのが世の中。備えておかねば」と、、、あの時誰もが思ったのではないでしょうか。
私が出した結論は、「50歳までに東京を離れる」でした。当時40歳。
過密さがもたらす東京のライフラインの脆弱さは、今もほとんど変わっていないでしょう。 助け合える隣人が多くいる過密さであれば多少は良いのかもしれませんが、多くの場合、そうではない。
以降、天職と感じていた音楽業界を離れ東京を離れるための方策を練る日々が始まりました。
余談ですが、震災発生時、私のボスだった人物は、日本とアメリカで特許を取得し、今、こんな会社を経営しています。
彼は、東大卒~ゴールドマンサックスという経歴で、頭の良さ、スピード感、問題解決力、人間力等々、この人物と出会ってその仕事ぶりに触れたとき、ヒトには「分」というものがあるということを知りました。
あるとき、とある組織の調査事業で、全国の若手農家に経営の実態について根掘り葉掘り話を訊きに行く機会がありました。
そこで会った農家たちを一言で表すなら、猛者。 3反で年商1.2億円のカーネーション農家とか、そんなんばっか。
そんな彼ら彼女らは、例外なく、自分の足で立っている。雇われず、自立しているワケです。40を過ぎたオトコの目に、その姿は、羨望とか尊敬を超え、ある意味畏怖でした。なぜこんなことが出来るんだと。こんな生き方をしている人たちがいるのかと。
余談ですが、件のカーネーション農家にお土産でもらった7色のカーネーション(1本のカーネーションが7色。自家開発!)を手に持ち乗り込んだ機内で、 「そのカーネーションはどこで買えるんですか?」と訊いてきたCAさんに何と答えたかは忘れてしまいました・笑
空港への移動中でも若い女性に声をかけられましたね。「そのカーネーションて。。。」
兼業農家だった親が実家でやっていた農業とはまるで違う世界。世間知らずだった私は、はじめてプロの農家というものに出会った気がしました。
あるとき、農家生まれで農業してない人、だけが参加できる飲み会という怪しげな催しに参加しました。
そこで出会った何人かと図らずも意気投合し、お互いの言うことに「いいね!いいね!」と熱狂し、私も含めて数名で出資し会社を設立。私は副代表に就任。
創業当時の熱狂は、今思い返してもそれは不思議なもので、当然のようにおとずれる紆余曲折を経て、今、会社は、代表者の熱意と事業に込めたストーリーが共感を呼び、日本におけるシードル普及の伝道者のポジションを確立し、業界内にその名を轟かせ、健全経営を続けています。
シードル、念のため、リンゴ原料の発泡酒です。
代表者は、自らもシードル製造の会社を起ち上げ、こんな取り組みの中心人物として地元長野で活躍中です。
彼は今も友人ですが、彼から、「どんなときも笑顔」の大切さを学びました。
そういえば、なにかとアドバイスをくれる友人(旧余目町出身)とも、件の飲み会で知り合いました。私とは違って学歴も経歴も素晴らしく、中小企業診断士やらMBAやら、やたらタイトルを持つ彼も今は地元に戻り、事業承継のプロフェッショナルとして山形県全域で活躍してます。
これをお読みの後継者不足にお悩みの生産者の方、ぜひ、彼に相談されることをおススメします・笑
沖縄時代
あるとき、妻と一緒に、妻が生まれ育った沖縄で数年間を過ごしました。
そこで、「地域活性化」なるジャンルがあることを知りました。地域に対し、余所から来た「専門家」がああだこうだやってお金を得る世界があると。
興味を持った私は、そこで仕事を得てみようと思い立ち、たまたまあったそれらしき求人(ハローワーク!)に応募したところ何故か採用され、沖縄県の事業におけるプロジェクトマネージャー(PM) なる職位をいきなり授かってしまいました。しかも、市役所、商工会、観光協会、民間事業者による事業連携体でのPMです。ビックリです。
事業目的は、「市町村単位で、これまで地域になかった商品及びサービスを地域内に創出すること」。行政が思いつきそうな感じです。とある沖縄本島南部の風光明媚な市とご縁をいただいた私に 与えられたのは、「市内飲食店の売上向上に資する仕掛けをつくる」「これまでにない視点に基づいた新たな土産品を開発する」「市の独自性を活かした新たな旅行商品を造成する」等の命題。 事業期間はまさかの7カ月。フフ。
意気揚々と、私のために商工会に用意されたデスクに任務初日に就いた私に商工会幹部が放った一言目とそのときのお顔が忘れられません。
「阿部さん、この事業は、完遂するのは無理だと思う。」
果たして結果は?
琉球王国時代の国王にまつわる史実を、飲食店の特色ごとにメニュー化した特別メニューだけで組んだ企画。参加した飲食店の売上は、昨年同月比190%。次年度以降の事業継続を望む声多数。
一見さん(観光客)狙いでなく地元の人にこそリピートされるべきという仮説のもと、フランス修行中に出会ったマカロンという食材を売りにしたいと考えていた 地元の若いシェフと組み、これまでマカロンの素材としては使用されていなかった沖縄食材を使った新世代マカロンのラインナップを創出した「土産物開発」等々、 連日突っ走っていた沖縄での日々は、明媚な沖縄の風景と共に今も鮮明に心に刻まれています。
「無理」と言っていた幹部が、企画が形になっていくにつけ、途中から誇らしげに外部に企画の話をしていた姿も、同じように、脳裏に焼き付けてあります・笑
件のマカロンは、東京で食べたピエールエルメのよりおいしいと感じました。沖縄旅行の際はぜひ。

帰郷
あるとき、沖縄での仕事がきっかけで、地域活性アドバイスを生業とする会社に出入りしていました(東京に戻っていました)。インバウンドが激増していた頃です。
全国自治体やDMO(観光地域づくり法人)に出向き、あぁだこうだ、言っていました。言うだけじゃなく、ちゃんと手足も動かしました。
とある地域の自治体職員からは、「設立予定のDMOの社長になりませんか?」と酒の席で言われたりしました。
で、あるとき考えました。
「どうやら自分は、人を動かす才気はある。動かすための戦略も考えられる。ストレングスファインダーでもその通り出ている。その才気(言い換えれば特徴)を、これまでのように、誰かが作ったプロダクトの上に乗った形で活かすのでなく、完全に、自分にベクトルを向けてみたらどうだろうか」
で、今やっていることに辿り着いたワケです。
酒田に戻って、農業やると言って、周囲から一番言われたこと。「エライ!」。
特に、地元・宮野浦の古老たちに、一番言われました。
母親からは反対されたましたが・笑
農業を選択したことで、起こったこと。 東京ではなかったご近所付き合いが始まった。サラリーマンを選んでいたら無かったハズのつながり。
フツーの人に見えてた近所のお婆さんが農業の達人だったり。
あと、親戚のありがたさを知りました。関係ないと思ってた家(人)が実は親戚とか、全然知らなかった人が実は遠い親戚で、なんか優しくしてくれたりとか。
著名なコンサルタントの言葉で心に残ってることがあります。
「地域では、自分より3代ぐらい前の先祖のふるまいが、フツーに、地域の中で記憶されたりしています。「お前の爺さんには世話になったからな」、で助けてもらえたりする。 地域で事業を成功させている人の裏側には、実はそんなこともあったりするんですよ。」
先祖に感謝。親に感謝。地域に感謝。
実際やってみての農業は、想像を超えた世界で毎日ヒーヒー言ってますが、なにもかもが自分の責任というのは、悪くないですね。 ヨケーなストレスもないし・笑
でも、作って売って終わりの農業では、自分の性格だと飽きてしまうかもしれない。飽きずにずっと続けられること、なにかないかなと。 そうして起ち上げたのがこの協会です。
自助、公助、共助でいう、共助です。
共助コンセプトの成功例、私が設立に携わった事例を参考にこしらえました。
その第一弾として「さつまいもでんき」。
というワケでいろんな方に感謝しながら毎日を生きておりますが、妻にはほんとに感謝。 なにせ沖縄生まれ。越してきた初年度の冬にこれ。
結婚した際に知らなかった事実。。。
16世紀に中国から沖縄にさつまいもが伝来した際、沖縄での栽培方法を確立し、その普及に尽力し、後に「琉球五偉人」と称された儀間真常(ぎま・しんじょう)親方(ウェーカタ※)。
妻の母方の祖先とのこと。
さつまいもがつないだ縁、でしょうか。
※琉球王府での最高位の役職